怪談蚊取り線香


端に火とつけると、蚊取り線香の渦巻きは、回り始める。
それは、古来、除虫菊の葉から、作られているという。しかし、一方で、「女中菊」がその語源だとする 説もある。

その昔・・江戸時代、さる旗本の屋敷に女中として奉公する娘がいた。名前をお菊と言った。 気立てがよく、気働きもよくするところから、主、笹司権衛門(ささつかさ ごんえもん)の 幼い一人息子、寿丸の世話をするようになった。
寿丸は、お菊によくなつき、一日中、「お菊、お菊」 と言っているかのようだった。 だがある夏の、それは蒸し暑い晩、お菊は、寿丸を寝かしつけたあと、蚊取り線香を焚くのを忘れてしまう。 翌々日、寿丸は、急に高熱を発し、駆けつける医者の到着を待たず、息を引き取ってしまった。 マラリアであった。

あの晩、お菊が蚊取り線香に火をつけなかったため、寿丸は、悪い蚊に刺されたのだ。お菊のせいでは、なかった。 その年の猛暑のせいで、南方の蚊が北上していたのだろう。 しかし、寿丸の遺骸をかき抱いて、半日、号泣してから、顔を上げた権衛門は、正気を失っていた。 お菊を手打ちにして、裏庭の井戸になげこんでしまった。
そして、寿丸の一周忌が終わる頃、笹司の屋敷の裏庭に、夜な夜な、お菊の亡霊が出るという噂が拡がった。




町の噂は、ある者が笹司の屋敷の裏手を通りかかったところ、柳の根方に若いお女中が しゃがんで、哀しげな顔で、蚊取り線香に赤い火をつけていたと言うものだった。 そのうち、私も見た、俺も見たということになった。

茂吉という男がいて、氷を手押し車に乗せて、商っていた。 その夏は、昨年にも増して、暑い夏で、彼の商いは、繁盛していた。 茂吉がお得意様である、笹司の屋敷に氷を届けようと、裏木戸から屋敷に入ると、井戸の側に、みかけぬ 女中がしゃがんでいた。 女中のしゃがんでいる所は、大きな松の陰の中だった。女中の姿は、淡い光の粒で出来ているように見えた。

「毎度お世話になります。氷を届けに参りました。」と、頭を下げ、女中の顔を見た茂吉は、青ざめた。 それは、一年前に死んだはずのお菊の顔だった。 お菊は、一巻きの蚊取り線香に火をつけると、それを金具に刺して、立ったまま硬直している茂吉の頭に載せた。 「その蚊取り線香が燃え尽きる時があんたの命の尽きる時なんだよ、茂吉さん。」お菊は、そう言って、陰の中へ消えた。

「なんで、俺が祟られなきゃならねんだ。」茂吉は、そう思った。3日ばかり、長屋の部屋に閉じこもって、 呻いていたが女中菊の蚊取り線香は、案外長持ちした。やがて、腹が減った。ご飯は、食べなければ、とまた、氷を売り歩くことにした。
頭の上に蚊取り線香を載せながら、氷を売り歩くのもどうかと、思ったが意外にそれが人気を呼び、 氷は、飛ぶように売れた。

茂吉の氷屋は、繁盛して、やがて、従業員も雇い、所帯を持ち、子宝にも恵まれた。頭の上の蚊取り線香は、 まだ、煙をあげていた。茂吉の家では、夏でも蚊取り線香は、いらなかった。万事、節約に努めると、家運は ますます盛んになった。




茂吉は七十七歳になった。店は息子から、孫へ引き継がれようかという時期だった。
そして、茂吉の頭の上の蚊取り線香は、ようやく燃え尽きようとしていた。
「やっと、これで俺も、あの世へいける。思えば幸せな人生だったなあ。この蚊取り線香には、 福があったらしいな。祟りじゃなくて、お菊さんの贈り物だったのかもしれない。」

茂吉は、次第に衰弱し、床に伏せるようになった。 頭の上の、蚊取り線香は、中心の目が残るのみとなった。これは、もうあれだな、と親族一同、 茂吉の枕元に集まった。
その時、部屋の隅の暗がりから、お菊の亡霊が現れた。 「おや、茂吉さん、まだ生きておいでだったかい。案外、もつもんだね、やっと消えるところかい。では、」 と、お菊は新しい蚊取り線香に火をつけると、それを茂吉の頭に載せた。 「それが燃え尽きる時があんたの命の尽きる時さ。ふふふふふふふ」とお菊は消えた。

あれっ、困るよお菊さん、やっと死ねるって時に・・・・・・・・なんだか、体があったかくなってきた。・・・・・・・・・・・・・・・・元気が出てきた。 ひと月も経つと、茂吉は、床を出て、飯を食べ始めた。三月もすると、禿げた頭は、黒髪で覆われた。 一年後には、十九の娘を後添えに迎えた。 「もう五十年、楽しむぞー。」茂吉は、吠えた。

がなぜか、家運は、次第に傾き、6年後には、氷屋は、倒産し、茂吉は無一文になった。女房には、逃げられ、一家離散となった。 50年後、茂吉は、あばら家の中で、煎餅布団にくるまり、真冬の隙間風に耐えながら、ひとり、死を迎えていた。 頭の蚊取り線香は、中心の目に達し、最後の煙を盛大に上げていた。

「思えば、あれだ。お菊さんが最初に俺の頭に載せてくれた、蚊取り線香は、左巻きだったんだな。左巻きの 蚊取り線香は、きっと、燃えながら福を呼ぶんだろう。 つぎにお菊さんがくれた蚊取り線香は、右回りだった。右回りは、逆に福を逃がすんだ。貸し借りなしってことだ。ふふふ」 笑うと、茂吉は、息を引き取った。

右回りの蚊取り線香と、左回りの蚊取り線香がある。右回りのものを裏返すと、左回りのものになるのである。



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