町の噂は、ある者が笹司の屋敷の裏手を通りかかったところ、柳の根方に若いお女中が
しゃがんで、哀しげな顔で、蚊取り線香に赤い火をつけていたと言うものだった。
そのうち、私も見た、俺も見たということになった。
茂吉という男がいて、氷を手押し車に乗せて、商っていた。 その夏は、昨年にも増して、暑い夏で、彼の商いは、繁盛していた。
茂吉がお得意様である、笹司の屋敷に氷を届けようと、裏木戸から屋敷に入ると、井戸の側に、みかけぬ
女中がしゃがんでいた。 女中のしゃがんでいる所は、大きな松の陰の中だった。女中の姿は、淡い光の粒で出来ているように見えた。
「毎度お世話になります。氷を届けに参りました。」と、頭を下げ、女中の顔を見た茂吉は、青ざめた。
それは、一年前に死んだはずのお菊の顔だった。 お菊は、一巻きの蚊取り線香に火をつけると、それを金具に刺して、立ったまま硬直している茂吉の頭に載せた。
「その蚊取り線香が燃え尽きる時があんたの命の尽きる時なんだよ、茂吉さん。」お菊は、そう言って、陰の中へ消えた。
「なんで、俺が祟られなきゃならねんだ。」茂吉は、そう思った。3日ばかり、長屋の部屋に閉じこもって、
呻いていたが女中菊の蚊取り線香は、案外長持ちした。やがて、腹が減った。ご飯は、食べなければ、とまた、氷を売り歩くことにした。
頭の上に蚊取り線香を載せながら、氷を売り歩くのもどうかと、思ったが意外にそれが人気を呼び、
氷は、飛ぶように売れた。
茂吉の氷屋は、繁盛して、やがて、従業員も雇い、所帯を持ち、子宝にも恵まれた。頭の上の蚊取り線香は、 まだ、煙をあげていた。茂吉の家では、夏でも蚊取り線香は、いらなかった。万事、節約に努めると、家運は ますます盛んになった。
茂吉は七十七歳になった。店は息子から、孫へ引き継がれようかという時期だった。
そして、茂吉の頭の上の蚊取り線香は、ようやく燃え尽きようとしていた。
「やっと、これで俺も、あの世へいける。思えば幸せな人生だったなあ。この蚊取り線香には、
福があったらしいな。祟りじゃなくて、お菊さんの贈り物だったのかもしれない。」
茂吉は、次第に衰弱し、床に伏せるようになった。 頭の上の、蚊取り線香は、中心の目が残るのみとなった。これは、もうあれだな、と親族一同、
茂吉の枕元に集まった。
その時、部屋の隅の暗がりから、お菊の亡霊が現れた。 「おや、茂吉さん、まだ生きておいでだったかい。案外、もつもんだね、やっと消えるところかい。では、」
と、お菊は新しい蚊取り線香に火をつけると、それを茂吉の頭に載せた。 「それが燃え尽きる時があんたの命の尽きる時さ。ふふふふふふふ」とお菊は消えた。
あれっ、困るよお菊さん、やっと死ねるって時に・・・・・・・・なんだか、体があったかくなってきた。・・・・・・・・・・・・・・・・元気が出てきた。
ひと月も経つと、茂吉は、床を出て、飯を食べ始めた。三月もすると、禿げた頭は、黒髪で覆われた。
一年後には、十九の娘を後添えに迎えた。 「もう五十年、楽しむぞー。」茂吉は、吠えた。
がなぜか、家運は、次第に傾き、6年後には、氷屋は、倒産し、茂吉は無一文になった。女房には、逃げられ、一家離散となった。 50年後、茂吉は、あばら家の中で、煎餅布団にくるまり、真冬の隙間風に耐えながら、ひとり、死を迎えていた。 頭の蚊取り線香は、中心の目に達し、最後の煙を盛大に上げていた。
「思えば、あれだ。お菊さんが最初に俺の頭に載せてくれた、蚊取り線香は、左巻きだったんだな。左巻きの
蚊取り線香は、きっと、燃えながら福を呼ぶんだろう。 つぎにお菊さんがくれた蚊取り線香は、右回りだった。右回りは、逆に福を逃がすんだ。貸し借りなしってことだ。ふふふ」
笑うと、茂吉は、息を引き取った。
右回りの蚊取り線香と、左回りの蚊取り線香がある。右回りのものを裏返すと、左回りのものになるのである。